マレーシアでバティックが本格的に発展するようになったのは1930年代。ジャワで19世紀中頃に発展した金属製のろう置きのための型=チャップが広く使われるようになりました。最初の品質はよくなかったようですが、それでもこのバティックは地元の人が使うサロンなどに使われ、一部は国外にも輸出されたとのこと。この発展の背景には、工業化されしっかりとして表面が滑らかな綿布がインドやイギリスから手に入るようになったこと、また、19世紀の後半には自然染料よりも取り扱いやすい合成染料も出てきたため、精密でカラフルな柄が描けるようになったことがあるようです。また、クランタンやトレンガヌではそれまで、絹や綿の機織りに従事していた女性たちがこのように染色の分野へ徐々にシフトしていったことも、この地域でのバティックの生産が加速される要因として考えられるものです。さらにこの頃から、ろうけつ染めではないいわゆる絞りの技術や、木製の型を使ってプリントする方法、シルクスクリーンのような技術も試されるようになってきました。
チャップを使用するバティックの柄として、マレーシアでは自然から得たモチーフを好みますが、イスラム教の観点から生き物(人を含む動物)を描くことが禁じられているため、バティックの柄として動物をリアルに描くことは一般的にはありません。大半は植物で、マレーシアでよく知られる花や外国の花、フルーツや木の葉などがよく描かれます。ただし、動物であっても広く用いられている蝶のほかに、孔雀やイナゴ、ヒトデ、かたつむり、魚、エビなどはモチーフとして様式化されたものが使われることがあります
1957年のマレーシア独立以降、政府機関が徐々に整えられていき建国の熱気とともに様々な分野での人材育成も行われ、バティックの製作においても技術を学んだ人たちが活躍するようになります。また、この時期は世界でも多様な文化に対する興味が膨らみ、マレーシアのような「エキゾチック」な地域への旅行や、そういう地域にある芸術や工芸品に対する嗜好が広がり始めた時期と一致し、バティックについても国際的なマーケットが生まれ始めました。1960年代にはツーリストや現代的なファッションのニーズに対応するため、チャップを使用したバティックがマレー半島西海岸のいろんな場所でも生産され始めました。ファッション性の高いものはクアラルンプールやその周辺の工房で生まれ始め、都市生活者や外国人向けにバティックが作られました。漂白する手法を使った柄作りなども行われています。
1970年代には経済も発展し始め、チャップによる伝統的な作り方にこだわらないユニークなマレーシアンバティックを作る機運が盛り上がります。国内外で学んだ若者が従来の概念にとらわれない様々な手法を使い、自由な発想でアートと工芸とファッションを組み合わせた新しいタイプのマレーシアンバティックを作り始めます。例えば太い線を描くために様々なサイズのブラシを使用して蝋を置いたり、チャンティンにとどまらず芸術的なインパクトを生む道具をろう置きに用いたりしました。現在もよく見られるように蝋を置いたあとにブラシによる染色も行われます。このようにマレーシアのバティックはそれまでチャップを使った型押しが中心だったものが、70年代には手書きのろう置きが盛んになります。しかし、これらの手書き手法はインドネシアの伝統的なバティックに見られるような、細密で複雑かつ熟練と長い製作時間を要するものを目指すのではなく、一般的に明るく自由で大胆、しばしば抽象的でそれまでにない色使いが志向されるようになりました。今日マレーシアのバティック工房を訪ねた時によくバティックの製作過程をデモしていますが、よく見るのはチャンティンを使って自由な柄を描いた布地に筆で染色している場面です。このように、チャンティンの使用と70年代に始まったマレーシア独特のバティックの創造は、その後のマレーシアのバティック産業の発展に大きな役割を果たしたようです。