スマホの将来とAIについて考えてみた

初めてスマートフォンを使い始めてから、10年が経ちました。もうこれ無しでは生活できなくなっています。

スマホの機能として今、頻繁に使っているものをざっと挙げただけでも驚くほどですね。

連絡(音声通話をするのはまれ)、ニュース・天気予報(新聞は読まなくなった)、音楽、地図・道案内、カーナビ、SNSで某アイドルをフォロー、時刻表・経路検索、メモ、スケジュール管理、TV録画・視聴(パナソニックのDIGAという録画機を買ってスマホと連携したら便利でびっくりした)、カメラと撮った写真の閲覧、日記、辞書(英・日・マレー語辞書はアプリを買った。英語辞書はとても頻繁に使う)、動画視聴、電子書籍、ラジオ、銀行とか証券の取引、買い物、交通機関やイベントの予約、もちろん知らないことの検索……ちなみに、ゲームはしません。

もうこの便利さは手放せません。一度こういう味をしめたからには、これが使えなくなることには耐えられないと思います。

しかし、それだけ気に入ったスマホでも気になることがあります。もうこの歳だから(60前)、自分のことはどうでもいいけれど、もし自分が20歳の青年だったなら、それから何十年もの間、この小さい画面と小さい字を眺め続けなければならないのか……と思うと、ちょっと憂鬱です。

じゃあ、使わなければいいじゃないかと言えば、ここまで多くの人に浸透して、今や社会のたくさんの仕組みに組み入れられてしまったものなので、そう言うわけにもいかないでしょう。では、これからスマホはどうなっていけばいいのか?、と考えてみました。

 

<ディスプレイ>

もし、優秀な人工知能が喋っていろんなことを教えてくれるとしても、ディスプレイは動画や写真を見るために必ず必要です。でも、ディスプレイが必ずしもスマホ本体に付いている必要はないんじゃないでしょうか。

以前話題になったGoogleのメガネ型の端末や、スマートウォッチ、それに今はコンタクトレンズから直接網膜に画像を映し出すデバイスを開発しているところもあるそうです。

だから、将来はディスプレイの多様性と、スマホ本体からいろんなディスプレイに画像を表示できる仕組みが必要だと思います。音だけならワイヤレスイヤホンなど、今ブルートゥースで普通にやってることですよね。

本体は鞄にしまっておいて、手に持って見るのはディスプレイ機能に特化したデバイスでもいいのではないかと思います。スマホ本体とディスプレイが分離されれば、消費者には価格面でもメリットがあるんじゃないでしょうか。

 

<AIによる音声アシスタント>

今のスマホは確かに便利ですが、余計な情報が目に入りすぎる気がします。本来興味を持ってない分野の記事でも、面白いタイトルが書かれていると見てみたり。

今ある音声アシスタントはアップルのSiriしか使ったことがないけれど、将来もっと能力がアップすれば、個人のいろんな興味を汲み取って向こうから関心のあるニュースや記事や大事な連絡が来たことを、音声で知らせてほしいですね。イヤホンを常に耳につけておいて。

さらに、そのニュースや記事の概要を要約して教えてくれれば言うことなしです。このぐらいになってくれれば、多少は目に入る不要な情報量が減るのではないかと思います。

 

<AIと個人情報の扱い>

しかし、ここでプライバシーの問題が出て来ます。自分が興味ある事を適切に選んでAIから知らせてもらうためには、自分のことをできるだけ詳しく、たくさんAIに知らせて憶えておいてもらう必要があります。

わりと最近、スマホのGoogleの検索画面におすすめの記事やニュースが表示されるようになりました。これはGoogleのAI(普通のコピューターかもしれないが)を通じて配信されているのだと思います。最近は慣れてきて、タップして読むことも増えましたが、当初は非常に違和感がありました。

それは完全に自分が「読まれている」という感覚です。でも、私は何歩も譲って「読まれている」こと自体は別に構わないと考えることもできます。別に自分は重要人物ではないし、利用者数十億人のうちの一人なんだから、そんなこと真剣に考える必要はないと思うこともできそうです。

でも、この情報を使って自分が操作される可能性を考えた時には、この状況を受け入れることはできません。ここに表示される記事やニュースが、特定の偏向した意図に沿って配信されたものではないと、確認する手段はユーザーにはありませんからね。「最近は慣れてきた」というのは曲者です。

広告ではすでに当たり前のように、こうしたターゲティングが行われていますが、広告の場合はいやなら買わなければ済むこと。でも、ニュースや記事を読んでしまうと、頭にインプットされて残ってしまうのが問題です。ニュースのタイトルを見ただけ、あるいは、特定のテーマの記事が出現する頻度だけでも、影響を受けるのではないかと思います。

 

<AIとそれを利用する仕組みに対する信頼感が必要>

でも、星の数ほどある情報から自分に必要なもの、ためになるものを選んで吸収していくためには、AIの力を借りたいことも否めません。

その為にはAIに対する高い信頼感が必要だと思います。誰かに自分の秘密や悩み事を伝えて相談する時も、かならず相手を選びますよね。伝える秘密のレベルも、相手の信頼度に応じて変えるというのは、誰しも普通にやっていることでしょう。放送局のような人に秘密を伝えることはありません。

人間相手でも100パーセント信頼できる人というのは、そうそういるものではありません。なので、AIにも100パーセントの信頼性は期待できないと思います。

しかし、こういう振る舞いをするAIだから信頼できそうだ、こう言う仕組みで運営されているから安心だ、という信頼感が高まっていけば、自分の様々な興味や、時には秘密をAIに伝え、それに応じた情報をAIから受け取って利用することもできると考えます。

 

<個人専用のAI>

その仕組みとしては、やはり個人専用のAIが欲しいところです。いまの音声アシスタントでも個々人の情報はある程度覚えておいてくれますが、複数の人が利用するAIに、自分の深い興味に関する情報や秘密を伝えておくことは、やはりかなりためらわれます。

もちろん技術者は、アカウントさえ分けておけば事実上個人専用にできると言うでしょう。たしかに、今のAIやその利用の仕方であればそれでいいと思います。

でも将来もっとAIの能力が高まり、伝えることができる個人情報の量や質が高まった時に、物理的に同じAIが管理するメモリーに、何十万人?(あるいはもっとたくさん?)の個人情報が保管されるのは、私にはどう見ても気持ちが悪い状況です。

特に、AIが意志を持っているような振る舞いを見せるようになった時(実際に意志を持たせることができるかどうかは別にして、AI開発のひとつの方向性としては、そういう機能や表現方法が追求されると思う)、不安はもっと高まるでしょう。

だから将来は、物理的にも個人専用のAIがいて欲しいと思います。ソフトウェアのバグやクラッキングがあっても、容易には相互に接続できないようにしておくということです。スマホはそのAIと話すための窓口になります。もちろん、そんなことをすればめちゃくちゃ高コストになるから、実現性は疑問ですが。

 

<人格を隠すためのインターフェイスにならないか>

もし、個人専用のAIが自分とインターネットの間に入ってくれれば、AIが自分の人格を隠すための仮面になってくれるかもしれません。

今の検索エンジンの寡占状態は、ひとつの会社に莫大な量の個人の趣味嗜好、興味に関する情報が蓄積されているということで、やはり異常な状況ではないかと思います。

そこで、個人専用のAIがフェイクの検索情報を出して、個々人の人格を隠してしまうということが可能にならないかと思います。

偽の検索データを出すことになるので、インターネットや通信に対する負荷が増え、大迷惑になるとは思いますが。

 

<有料サービスが基本になる>

ディスプレイを目にする機会が減れば、広告を目にする機会も減ります。もし、AIが自分の仮面になってくれれば、ターゲティング広告も効果が弱まります。

今のネット空間はかなりの部分を広告が支えていると思うので、上に書いたようなことがもし実現すれば、ネット関連産業にやや冷や水をかけることになります。

しかし、新たな産業としてこうした個人向けのAIサービスができれば、それはそれでネット空間の新たな展開も見込まれるのではないでしょうか。音声アシスタントに広告を載せるのは困難だし、そもそも、そういう情報過多を避けるのも目的だから、AIによる個人向け音声アシスタントのサービスは有料にならざるを得ないでしょう。

そういう理由に加えて、もしそのAIがユーザーの信頼を損なうような振る舞いをしたら契約を打ち切られることになるので、サービス提供側の会社がAIの信頼性を追求する動機とするためにも、有料サービスが良いのではないかと思います。

もし、性能も信頼性も十分高い個人向けAIのサービスが提供できれば、長期間利用するユーザーも出てくると思います。

 

人間と同じように対話できるほどの高機能のAIは、私が生きている間にはとてもできるとは思いませんが、いずれにしてもスマホのような情報端末とAIとは、これからもずっと付き合っていかねばならないものだと思います。

手のひらの中の彼女(亜東 林)

アダムの選択(亜東 林)

 

手のひらの中の彼女(亜東 林)

 

シライン(亜東 林)

 

LIARS IN SPACE (Rin Ato):シライン英訳版

英訳の経緯はこちら

 

 

 

りょうこの誘惑(2)

いま(2020年2月)新型肺炎が世界中を騒がせていますが、2009〜2010年に豚インフルエンザが流行った時に、私は中国にいました。

豚インフルエンザは、あまり毒性は強くないという風に聞いていて、それ自体はあまり恐れていませんでした。しかし、WHOがこの流行に対して「緊急事態」であるという声明を出すかどうかについて、とても注目していたことを覚えています。

というのも、今回の新型肺炎での武漢の封鎖のように、こういう時に中国はとても思い切った措置を採る可能性があります。

WHOの声明に基づいて政府から指示が出されてしまうと、移動が制限されてしまったり、感染の疑いのある行動や症状があると強制隔離されたりすることがすぐに起こるからです。

実際にこの時には、同僚が一週間ほど病院に隔離されるということがありました。確か乗った飛行機から感染者が出たという話だったと思います。

そういう措置がなされる前に、できることはしておかなければならないから、WHOの声明について注目していたというわけです。

当時のマーガレット・チャンWHO事務局長がそういう声明を深夜に出すんじゃないかという時に見ていたのが、ネットの掲示板。2ちゃんねるというやつですね(今は5ちゃんねると言うらしい)。

実は「2NN 2ちゃんねるニュース速報+ナビ」というサイトをもう十数年見続けています。スマホを手に入れてからはほぼ毎日見てます。

書き込みの中には、酷い内容や誹謗中傷みたいなものもありますが、その時々の話題がかなり素早く集められて、それに対していろんな意見を見ることができるので、なかなか面白いんです。

芸能とか科学とか、普段自分からは探さない情報も載ってるから、世間とズレないようにするのにも少しは役立っているかもしれません。

はっきり憶えていないけれど、そのマーガレット・チャンが発表するかどうかの時に、この2チャンネルの掲示板に、状況を実況中継してくれる書き込みがありました。

読んでいると、どうも保健医療関係の専門家のようで、英語での情報を日本語で解説して次々と書き込んでくれました。ヨーロッパに住んでいる日本人のようです。時差的にも辻褄が合います。こちらは、夜中の2時とか3時に見てましたから。

このとき「掲示板結構役に立つじゃないか」と感心したのを憶えています。この時のことを思い出して書いたのが、「りょうこの誘惑」という話です。ナンセンスな内容です(これも死語だ)。

2ちゃんねるのサイトはものすごい広告が出てくるのでご注意を。電車の中で見る時には気を使います。


ボツになった「りょうこの誘惑」の表紙
この表紙についての顛末はこちら

ただいま工事中

アダムの選択(亜東 林)

 

手のひらの中の彼女(亜東 林)

 

シライン(亜東 林)

 

LIARS IN SPACE (Rin Ato):シライン英訳版

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りょうこの誘惑(1)

子供のころから科学がわりと好きで、ブルーバックスなんかの科学解説本をたまに読んでいました。でもブルーバックスは難しいし、他のもっと易しい本でもやはり全部は理解できません。

それでも、なにか自分が調子の良い時には、こういう好奇心をくすぐる本を読んで来たように思います。

その本の中で、世界の不思議さと、それを考えている人たちの凄さを感じたことがいくつもあります。相対性理論もそうだし、シュレディンガーの猫の話なんかもそうです。もちろん、どちらもちゃんと理解はできませんけどね。

その中で、これまでいちばん衝撃を受けたのは、京都大学の町田茂名誉教授が書いた「量子力学の反乱」(学習研究社)という本。もう25年ぐらい前に読んだんですが、最後の方に衝撃的なことが書いてありました。


量子力学の反乱

「〜測定の仕方によっては、粒子の広がりは無限小の1点から無限大、すなわちこの宇宙全体にまで広がり得るのである!」

あまりに衝撃的で、「え?そんなこと聞いてないよ」という、なんとも素朴な感想しか出てきませんでした。

この話と直接関係があるのかどうかわかりませんが、「量子もつれ」という現象があるそうです。町田先生の本にはこの言葉は出てきませんでしたが、たぶん関係あるんだと思います。

ネットで「量子もつれ」と検索すればたくさん解説が出てきますが、とてもじゃないが、普通の感覚では理解できない現象が現にあるそうです。この現象を利用するのが、最近話題になる量子コンピューターだとのこと。

量子コンピューターについても、本を買って読んだり、ネットで検索したり、Youtubeの解説動画を見たりしましたが、謎は深まるばかりで、とてもじゃないが私の頭では追いつけない世界が広がっていました。

でも、それをとてもいい加減に解釈して、テキトーに書いたのが「りょうこの誘惑」という話。

極端にくだらなくて(もちろん、良い意味でのくだらなさだと自分では信じている)、しかもお下劣(これは死語か…)な話だけど、自分ではとても気に入っています。

量子力学という学問はとんでもない世界に行っているようです。でも、世界は単純でなくて、複雑でいつまでも謎が残っている方がいいような気がします。それだと、いろんな可能性がまだ考えられるということですからね。

 


ボツになった「りょうこの誘惑」の表紙
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