ウェブ情報の歴史的価値と情報操作

ついこの間、とある海外の有名メディアによる新型コロナウィルス関連の電子版ニュースを読みました。かなり長い記事だったのですが、書かれていることはほとんどが既に報道されている事実関係。

独自の考察らしきものや新しいデータも特になく、何を言いたい記事なのかと疑問に思っていたら、一箇所だけ「某国は非常に素晴らしい対応をした」と書かれていました。

しかし、私がこれまでたくさんの報道を読んだ限り、その国の対応は「素晴らしかった」という一言で片付けられるようなものではなく、むしろ批判が渦巻いていたものです。

そこで考えたのは、この記事の目的は大量のありきたりの事実を並べた中に、この「某国は素晴らしかった」を潜り込ませ、あたかもそれが事実であるかのように思わせることだろうということ。

しかし、新しい感染症が広がっている最中のリアルタイムでこの記事を読んでいる人は、まだ記憶も新しいし、こんなことを書かれても「おかしい。偏向している」としか思わないでしょう。実際、記事に対する読者のコメント欄にもそういう意見がたくさんありました。

でもこの記事を書いた人も、そんなことは十分承知しているはず。

ということは、この記事の真の意図は現代のリアルタイムでの世論誘導を目的としているのではなく、何年もしてから、つまり歴史的考察に入ったような段階での事実認識を操作することではないかと思いました。

このような記事をできるだけ長くweb上に掲載し、一方では、この記事に反するような内容が書かれたものは、可能であればこっそりと削除していくということです。

インターネットの上にある情報は、つねに流動しています。一度書かれたwebページも、時間とともに変更、更新されていきますが、普通の人はいま現在閲覧することができるweb情報しか見ないでしょう。その限りにおいては、この手法は十分に効き目がありそうです。

しかし、もし過去の様々な時点でのインターネット上の情報が、その時のスナップショット(ある瞬間のコピー)として記録されていれば、そういう手法の裏をかくことができるし、将来とても貴重な歴史資料にもなるのではないでしょうか。

そう思って調べてみたら、しっかりとありました。アメリカにあるInternet ArchiveというNPOのようです。日本の国立国会図書館も紹介ページを持っているので、かなりしっかりやっているんだろうと思います。ただし、現段階では全文検索ができないなどの制約もあるようです。

ただ、仮にそういう団体がなくても、たぶんGoogleがやっているだろうとは前からぼんやりと考えていました。

Googleなどの検索エンジンは、webページを巡回してテキストや画像などを収集する「クローラー(crawler=這うもの)」と呼ばれるプログラムを使ってwebの情報を収集し、それを元に検索のための巨大なデータベースを作っているそうです。だから、あんなに早く検索結果を返してくるということです。

つまり、検索エンジンを運営している会社には、世界中のwebページのかなりの部分の情報が蓄えられているということ。

そして、webが更新されたり削除されたりしても、おそらくは上書きするのではなく(=以前のデータを消去するのではなく)、過去のデータを持ったまま、どんどん新しいデータを積み重ねていくんじゃないかと思います。確認はできませんが。

結局実態的には、前述のNPOが蓄積しているのと同様のデータは、Googleなどの検索エンジンを運営する会社は持っているんだろうと私は想像しています。

法的な問題など色々あると思いますが、こういう会社が将来、歴史家やその他のなんらかの理由からデータの利用を求められた時には、ぜひ何の操作もせずに、ありのままの時系列のデータを提供してほしいものです。

そうすれば、その時々の世論が生き生きと把握できたり、もし、とある主体にとって都合が悪いページがある時点から続々と削除されていれば、そういう操作が行われたことも判明します。

しかし、逆に考えるとこのデータの使い方次第では、将来歴史を操作できるということですよね。そんなことはあって欲しくはありませんが、現実的には極めて起こる可能性が高いことだと思います。

そう考えると、日本も検索エンジンとは言わずとも、webの時々の情報を記録していくべきではないかと思います。

日本自身が将来歴史を操作する可能性ももちろんあると思いますが、その危険性を考えつつも、少なくとも将来、外からおかしな歴史観が主張され始めた時に、それに反論するための材料は持っておいた方が良いのではないでしょうか。

またまた、そう思って調べてみたら、確かに日本でもそういう動きがあったようです。「国産検索エンジン開発が頓挫した先にあるもの」という記事が見つかりました。このタイトルが示すように結局失敗したようです。

ただし、この記事に書かれている危惧は、検索エンジンがもたらすビジネスへの影響や偏向した情報提供の可能性についてです。

こうやってwebページを作り始めて、私もインターネットを利用する上での危うさがとてもよくわかりました。過去に中国に住んだ際には、情報のフィルタリングも身をもって経験しています。

しかし、そういうリアルタイムの検索に関する危惧に加えて、私は長期的な視野で、web情報の歴史的価値にも目を向けるべきではないかと思います。

将来、「検索では見えてこないけれど、過去に蓄積されたweb情報の変遷を調べてみると全く異なる歴史の様相が見えてきた」ということは十分起こり得るはず。

そのためにも、web情報の時々のスナップショットを蓄積しておくことはとても重要ではないでしょうか。Internet Archiveがやっているからいいのかもしれませんが、私は国が100%税金でやっても良いのではないかと思うほどです。

重要なのは、情報の蓄積とともに、それをいろんな角度から詳しく分析できるツールの開発が必要なこと。ツールが良ければ、蓄積した情報の価値は飛躍的に高まると思います。

昨年から、日本のいくつかの大手メディアの報道に、ものすごく違和感を覚えるようになりました。「いくらなんでも、さすがにこれは理屈が通らない」と思うような見解が平気で流されていると感じています。

こんなに露骨なことをすれば、そのメディアに対する信頼が失われ、ビジネス的にもデメリットばかりではないかと思えるようなことを、なぜ続けているのかとずっと不思議に思っていました。

そんなことを書いても、マジョリティは反発するだけだとわかっているようなことをなぜ発信し続けるのか?

もちろん様々な可能性が考えられます。そのメディアなり記者なりが真に正しいと思うことを書いている可能性も無くはありません。webなら挑発的なタイトルと内容でわざと炎上させて、ページへのアクセスを稼ぐというのも普通に行われているでしょう。

それ以外にも、直接世論誘導しようとする意図も当然あるだろうし、穿った見方をすれば、国の世論を右と左という単純な構図に分断させようという意図もありそうなものです。そうすれば国力が弱まりますからね。

しかしそれに加えて、その記事が記録として残ることによって、遠い将来に誰かが記す歴史に影響を与えようとする意図もあるのではないかと、冒頭の新型コロナウィルスの記事を読んで、思えてきました。

そこで注意しなければいけないと思ったのが、webのニュース記事などへのコメント欄。

確かに、おかしいと思う記事に対して異論を書き込んだり、自分の意見を書き込むと、なんとなく「言ってやった!」という充実感があるし、こんなにみんな反対しているぞと世論を見せつけたような気になることがあります。しかも、場合によってはそれが現実の世論を動かし、社会に大きな影響を与えることもあり得るでしょう。

でも、このコメントって将来にわたって保存されるの?という素朴な疑問があります。そのサイトの中ではたぶん残されるだろうけど、サイトが閉鎖されれば終わりだし、時間が経てば、データ容量が大きいコメント欄だけ消去されてしまうこともあるかもしれません。

それに、全世界のwebデータを包括的に収集している検索エンジンのクローラーは、一つの記事に何千とあるコメントまで記録していないんじゃないでしょうか。検索には必要ありませんからね。クローラーは、データベースのような動的な内容は収集していないようです。

ニュース記事へのコメント欄には様々な観点からの意見が書き込まれていて、その時々の社会の風潮が(かなり偏りはあるにせよ)ビビッドに伝わります。でも、その場限りなんじゃないか、と思われます。

つまり、将来にわたって残るのは、結局、本体の記事のみということになるだろうということです。

例えば今から20年後に、現在の状況を体験していない若者がインターネットを検索して、この新型コロナウィルスの発生と広がりの経緯を調べたら、はたして正確な状況を把握することができるでしょうか?

そんな危惧もあるので、なんとか国が自前でweb情報のスナップショットを、一部なりともあのコメント欄なども含めて、撮ることができないものかと思います。

もちろん政権批判がたくさん書かれていますが、その妥当性は選挙で確認すればいい話で、気にする必要は全くないと思います。

 

アダムの選択(亜東 林)

 

手のひらの中の彼女(亜東 林)

 

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AIの創造性を考えてみる

私には技術的な限界がないから、つまりそもそも技術を知らないから技術の限界もわからないし、何かを実際に作らなければならないという責任もないので、躊躇なく無限の可能性を考えることができます。

と都合の良い立場を生かして、いろいろ考えてきたことのなかに、人工知能の創造性の話があります。

最近話題になるAIのニューラルネットワークとかディープラーニングなどの成果をテレビで見たり本を読んだりして、これは本物だ、このAIはこれからどんどん発展していくと思いました。

一方でどれだけこういったAIが進歩していっても、限界があるのではないかなと思うのが創造性の部分です。

例えば、こんな疑問です。今のAIに大量のデータで学習をさせたあと、それ以上は新たな学習をさせずに外部との連絡も完全に断ってから、まず「ひまわりの絵を描け」と言います。それでひまわりの絵を描きますよね。

そこで、一旦そのAIのスイッチを切って、もう一度立ち上げ、もう一度「ひまわりの絵を描け」と言ったら、さっきと同じ絵を描くんでしょうか?それとも異なった絵を描く可能性があるんでしょうか?

 

人間の場合は、時間を隔てて全く同じ状態にあることはないので、同じ人間にひまわりの絵を二度描かせても、間違いなく違うものが出来上がるでしょう。ほとんど同じに見えたとしても、花びらの形が違うとか、色が少し違うとか。

人間の脳は体温の変化や血液の化学成分の変化、周囲の音や場合によっては磁気の影響なども受けているかもしれません。そういうものの影響を受けて、脳細胞の信号の伝達が微妙に異なり、思考の結果出てくるものも微妙に異なるのではないかと思います。

そういう不確実さのせいで「何かの拍子にふと頭に浮かんだアイデアを他人に言ったら、悪くない反応だったので、もう一度よく考えてみたら実現の可能性が見えてきた。そこで本格的に調べて研究することにした」といった具合に、ある思考回路をどんどん太くしていって、時として新しい発見や創作物に繋がっていくんじゃないでしょうか。

 

デジタルコンピュータは再現性に優れていて、同じ問題を何度解かせても同じ答えが出るというのが優れたものです。なので、そのデジタルコンピュータを使って構築されたAIなら、基本的には再現性を持つはずです。

もちろんAI自身が、創造性を持つためには思考になんらかの「揺れ」が必要であるということを学習し、そういう不確実な振る舞いをする機能を自らの内部に構築してしまう可能性は十分あると思います。

そういうAIも作られているかもしれません。しかし、それでも限界があるのではないでしょうか。

どうも、人間の創造性にはこうした判断や反応の「揺れ」が必要なのではないかと思うのです。

その「揺れ」は何をもたらすのかというと、多様な行動の可能性であり、その多様性の中で選ばれたある選択肢が、その人間の中で一つの大きな方向性に収斂してくれば、それは「意志」という言葉で表現されるものになるのではないかと思います。

頭脳の中でこの「揺れ」というか不確実性が、実は本質的に重要な意味を持っているのではないか、ということはずっと前から思っていました。簡単に言えば、「脳は時々間違うよ、でもそれが大事なんだよ」ということ。

時々間違うけれども、手ひどい間違いだけは避けて、仮に間違えてもそれを修正してしまう理性や経験を持つ頭脳が、創造性を持つ人間の頭脳なんじゃないかと思います。

じゃあ、AIにその真似をさせるかというと、まだ当面それはないのではないかと思います。例えば、今はAIを使って融資の判断をさせるようなことが行われていますが、同じ条件をインプットしても毎回出てくる答えが微妙に違うなんて嫌ですよね。

でも将来技術がさらに発展して、創造性のある人間と同じような振る舞いをするAIを作ろうとするとき、このように小さなエラーを起こすAIを作る必要があるのではないかと思います。

そのためには、デジタルではなくてアナログの技術を使った(そんなものができるのかどうか知らないが)コンピュータの方がいいのではないかという気がします。

その代わり、そんなAIは時々間違うし、根拠はないけれどきっと速度も遅くなるんじゃないかと思います。だから、真の意味で人間の頭脳を超えるAIを作るのはまだまだずっと先になるのではないか、と思っています。

手のひらの中の彼女(亜東 林)

アダムの選択(亜東 林)

 

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AIの意識

AIが発達すると意識を持つのかどうか、私がいくら考えてみてももちろん結論にはたどり着きません。人間の意識についてさえ、それが何なのかよくわからないし。

でも、発達したAIが意識を持つ可能性があるのかどうか、についてはやはり小説を書く中で考え、少し触れています。

所詮フィクションだと割り切って、話の中では勝手なことを色々書いていますが、この意識の部分については考えに考えたあげく、おもしろく書く良い案が浮かばずに思いっきり誤魔化しています。

ただし、書いている途中に思いついたことをスマホにずっとメモし続けていたんですが、AIの意識について書くアイデアに一つ気に入ったものがありました。意識は突き詰めると宇宙に一つしかないというものです。

どういうことかというと、自分以外の他者にも意識があるということを証明するには、自分の意識がその他者の意識を経験してみるしか方法が無い。

しかし、その他者の意識を経験して、自分以外の意識が存在すると確認するためには、その2者の意識が並行して存在していることを認識する別の意識がなければならない。

その場合、結局2者の意識があるのではなく、それを見ている一つの意識の下に2者の意識(のような体験)が含まれてしまっている、ということです。結局その場合も意識は全体で一つしかないという意味です。

この部分を考えていた時のスマホのメモのコピペは次のとおりです。

つまり、より高みの意識が認識する必要があるのよ。それをずっと上に辿って行くと、わたしとあなたは結局いっしょなのよ。一つの意識に集約される。

結局意識は排他的なのよ。排他的なもの(並立を許さないもの)なのに、その一方で何かを認識する意識が存在しているということは、結局なにもかも一つに集約されなければならないということじゃないかしら。つまり、意識の存在を突き詰めて行くと、たった一つの意識に収束するということね。言い換えれば、あなたに意識があるならわたしにも意識があるっていうこと。

これはかなり酔ってますね。酔うと全然ダメになってしまうときと、なんかビビッと勢いよく書いてしまうときと二通りしかありません。

結局、AIに限らず自分以外の他者の意識の存在を知るには、推定あるいは類推によるしかないんじゃないでしょうか。

この考え方は面白かったんですが、こんな風に理屈っぽく書いたらストーリーのバランスが崩れてしまうと思って、ここは思いっきり誤魔化したのは先に書いた通りです。

 

もう一つ話全体を書く上で、AIの意識の話と関連する点は、前にも書いた身体感覚のことです。あるいは感覚器とかセンサーとか言えば良いでしょうか。

これは自分で勝手に言っていることではなくて、こんな考え方はあるみたいです。

一番簡単に思考実験してみると、仮に自分の脳が事故か病気か何かで、皮膚感覚も含めて外からの情報を一切絶たれた時を思い浮かべた場合、その脳で意識の存在を感じることができるのか、ということ。

さらに、こんなことは考えたくもないが、もし生まれる前からそういう状態に置かれた人がいた時、意識を感じることができるのか?あるいはもっと単純に自分の存在を感じることができるのか?ということです。

他者や世界の存在を感じる方法が全く無いという状態です。

たぶん、意識とか自分の存在を感じることはできないのではないか、と思います。

しかし、仮にそこにほんの一部分、自分の頭の皮膚の感覚が戻り、そこを触られた刺激に対して口の隅っこをほんの少し動かすことができたなら、自分の存在を感じることができるのではないでしょうか。

外からの刺激に対して、なんらかの反応をすることによって、外からの刺激のあり方が変化することを知るという経験をすることによってです。

つまり、意識あるいは自分の存在を感じるということは、自分以外の外との関係性によって生じるという考えです。

 

それなら、部屋の状況によって動きを変えるお掃除ロボットのルンバにも意識があるということじゃないか、という話になってしまいますが、実はそう考えるのも妥当じゃないかと思えてきました。

前に書いたとおり、他者の意識が存在することを証明することができないのがもし本当ならば、他者に意識が存在しないことを証明する手段も持っていないんじゃないかと思います。

外見的に外界との相互作用で振る舞いに変化を起こしている物体があれば、それは外見的には自分となんら変わりはなく、しかもその物体に意識はないと否定する根拠はありません。

あるいは逆の考え方もできて、人間はルンバと同じようなものに過ぎず、意識なんて大仰に考える意味はない、と考えることもできるかもしれません。

しかし、人間とルンバが大きく違うのは、ルンバは外界からの刺激に対してプログラムされた決まった反応しかしないが、人間の場合はその時々に応じて、異なる反応をするということなのではないか、それは意識を持った自分が判断して反応しているのではないか、という反論があるのではないかと思います。

でもこれには注意が必要で、当然人間の頭脳はルンバよりも大幅に複雑なので、振る舞いがその時々によって異なるように見えるのは当然です。

しかし、人間の頭脳がどんなに複雑であっても、もし完全に同じ条件下であれば、必ず同じ反応をする、というのでは本質的にはプログラムされたルンバと異なるとは言えません。

でも実は、人間や動物は全く同じ条件下でも、異なる振る舞いをすることがあるんだろうと思っています。ただし、それは意識の存在に関わる話ではなく、創造性に関わる問題なんだろうと思います。それはまた別に考えてみたいです。

 

意識というものの定義にもよりますが、定義を極端に広く捉えた時、極めて低レベルながら、ルンバにもある種の意識があると言うことができるんでしょうか。

将来それがどんどん高性能化されると、意識のレベルが上がっていくということなんでしょうか?もちろん推測、類推ですが。

それとも、意識なんていうものに実体は無く、そこには感覚器を持って、ただ外界と相互に作用をしあう物体があるというだけなんでしょうか?

そういうものは、哲学的ゾンビという名で呼ばれているようです。

手のひらの中の彼女(亜東 林)

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